基調講演「日本の働く女性の歴史~現代女性のライフスタイルの多様化」全文
(株)リクルートHR‐DCエグゼクティブプランナー、女性たちの情報化研究会会長
Yoshiko Watanabe
渡邉嘉子

男女にかかわらず、誰でも、「世界でたった一つの人生を、自分らしく最高に活かしきって一生を終えたい」と願っているのでは無いでしょうか?

日本の女性は、今から30年ほど前まで、「結婚してこどもを育てる事が女性の幸せな一生である」という社会の考え方が支配され、自分の個性を活かす仕事に就くことがとても難しい状況にありました。女性に期待する人は少なく、就職先も限られていたのです。 私自身、デザインを勉強して就職活動しましたが「すぐ結婚して仕事をやめるのでしょう」と断られ続け、女性が先入観で期待されていないことを知り、大きなショックを受けました。その体験から私は「結婚し子供を持っても自分を活かす仕事を持つ女性」の前例となり、社会の見方を変える生き方をしたいと思い、母と子供の理解を得て仕事を続けてきました。

そして私は広告制作や編集の仕事をすると共に、人に人生のチャンスを与える「人と仕事を結ぶコミュニケーションを研究してきました。人間にとって自分を活かす機会を提供する「仕事の情報」は人の一生を変える可能性のある重要なコミュニケーション分野だと思ってきたからです。

それでは日本の働く女性の歩みについて話しましょう。 日本最古の歴史書である「古事記」では日本を作った神々も生きる営みとしての「仕事」をしています。また日本では昔から「職業に貴賎なし」という言葉があり、「働くことは職種に関わらず尊いこと・尊敬すべき事である」と考えてきました。日本では、ゴミを集める仕事も蔑みません。日本人が「勤勉」といわれる国なのは、「働くことは立派な事だ」という考え方が歴史的に浸透してきたからです。

日本の仕事の発展を考えると、まず日本の縄文時代(BC7500)には生きるための食料を得るため狩猟採集を行っていました。 弥生時代にはいると稲作が行われるようになり、日本は約100年くらい前まで約9割近くの人が農民でした。 日本は四季の変化の激しい緯度にあり、稲の収穫を得るために、季節の変化を予測しながら地域が協力して働く必要があるので、計画性のある人の「和」・「チームワーク」を重んじる国になりました。

また日本人は石・木・竹・紙・布など様々なものを活用していろんな製品を作り出し、流通させてお金を得る経済活動を行うようになりました。こうした物づくりの技術は、現在のTOYOTA・SONY・HONNDAなどの日本の生産技術力の基礎となりました。

1012年に源氏物語という宮廷を舞台にした恋愛小説を書いた紫式部などの知的な女性作家も出現していますが、多くの女性は、歴史の表舞台に出ることなく農業・漁業・商業などに携わるとともに、家事・育児・老親の介護を担当し、職業選択の自由も少なく働き続ける人生を送っていました。

 

18世紀に、江戸は100万人の大都市となり、識字率も5割ほどに達し、木版技術による出版活動が盛んに行われ情報産業も発展しました。この時代には働く女性の姿を描いた木版の本が、いろいろ出版されました。これがその中のイラストです。この北斎の描いた私の大好きな農婦の絵(下左)を見てください。鍬の柄にたぶん昼食の重箱を入れた風呂敷をかけて鉄瓶を持って美しいポーズで立っています。農業のプロであると同時に頼もしい母であった事が伝わってきます。農婦をこんなに美しく書いた北斎は、働く女性を高く評価していたと考えられます。

 

一方これは大名の奥方とその書記や侍女たちです(上右)。江戸時代には士農工商という職種分野による身分制度がありました。つぎにこれは普通の働く女性たち。繭から生糸を作り出している女性たち。綿を売る店で働く女性(下左)、針売り・洗濯のり売り・洗濯する女性。また花を売る大原女・扇の地紙折・扇の絵師。次に右は花売りと芸者、左は人材斡旋の口入れ屋で、真ん中はコーディネーター、左右の女性はセカンドワイフの応募者で、左上はベビーシッター。女性が知的な職業に就くことはとても難しかったのです。

 

日本は明治になって世界と交流をはじめ、産業革命を取り入れ富国強兵政策の元で発展して行きました。初めて日刊の新聞が発行され、最初に掲載された広告は「乳母募集広告」(上右)でした。「良い乳が出るなら良い報酬を出す」と書いてあります。乳の出津古とがエンプロイアビリティだったのです。ここからは求人広告の事例で働く女性の実態を紹介していきます。

これは生糸の製糸工場の女工、次に子供をもらってくれる人を探す広告新聞(下左)で子供をやり取りしていたのです。これは「自分は親に結婚を迫られているが、日本画を勉強したいのでぜひ日本画家の妻になりたい」という女性の切実な広告。自由の無い人生を送る人が多かった事が分かる。

大正時代に入ると口入屋(人材斡旋業)も盛んでデパートの店員やお菓子工場の女工・女優などの女性の職業が拡大。昭和の戦前には日本の貧しい人たちが夢を求め、南米に移民したのです。化粧品のキャンペーンガールの仕事も出現。

  

しかし日本はどんどん戦争に向かい「欲しがりません。勝つまでは」という標語の元に、贅沢なオシャレはできなくなり、男性が徴兵され不在となった職場で女性が活用されました(上右)。これは満州開拓民とその花嫁の募集(下)。日本が戦争に負けると開拓民の夫たちは、ロシアにシベリアへ強制労働に連れ出され、残された母子は中国残留婦人や孤児になったり大変つらい目にあいました。この広告がそのきっかけだったのです。

戦争が終わると翌日には、戦災者優先採用の広告が出ました。進駐軍がやってきて戦時中敵国語として使えなかったカタカナが使えるようになり、これは進駐軍の通訳やタイピストの募集。下は夫をなくした戦争未亡人対象に求人している生命保険会社の広告(下左)。

戦争に負けた日本人は必死で、経済復興に取り組みました。テレビアナウンサーや婦人記者・スチュワーデスなど、知的な能力を生かせる広告が少しづつ増えてきました。しかし男女雇用機会均等法が施行されるまでは、まだまだたくさんの差別が残っていました。

 

右は女性を「職場の花」にたとえた求人広告。真ん中は、仕事内容より制服の魅力でひきつけようとする広告・左は、まだ珍しかった「男女同一の待遇」をアピールする広告(上右)。

1986年男女雇用機会均等法施行後は現場監督や大卒の専門能力を生かせる仕事・派遣・香港で働く仕事など職域が幅広く広がった。 それでは現在の女性の仕事の環境について話しましょう。日本は今、経済のグローバル化・少子高齢化・環境問題に対応した仕事など様々な人材のニーズがあります。多様な社会のニーズに対しては多用な働き方で対応していく必要があります。

この図は、バブルが崩壊した1992年から現在までの雇用の変化を図にしたものです。バブル崩壊後、無駄な雇用をなくすため、正社員が減少し、派遣やアルバイト契約雇用などさまざまな雇用形態が増加しました。女性は資格や専門能力を活かして働く人が増えました。

次の人生年表は90歳くらいまでの長くなった人生をどんな働き方で過ごすかというものですが、60歳からの長い人生を考えると、みんなが独立起業する覚悟をしたほうが良い時代になって来ていることが分かります(下)。

これは日本の女性の働き方が特徴的にあら割れているM字型といわれるデータです。日本女性は子供が生まれると仕事をやめるケースが多いのです。子育て後の長い人生をどうするかが大きな課題です。政府は少子化を食い止めるためにも働き続けられるよう、託児所などの環境整備に力を入れています。

次は正社員の減少傾向と能力主義雇用への移行を図にしたもの。次のデータも正社員以外の契約や短時間の仕事が増えていく事を示しています。次は男性に比べ女性はパートタイマーやフリーターの仕事に満足する人も多い事を示しています。

仕事を選ぶという事は生き方を選ぶという事でもあります。働く目的も多様化しています。こうした目的の多様化を12のアングルで考え、多様な目的に対応する求人広告も出てきています。 皆さんは何の目的で働きますか? お金・地位、安定・環境、健康・憧れ、体験・仲間、援助・成長、変革・創造。

しかしまだ日本の固定的な男女の役割分担意識は諸外国と比べて多い状況です。日本の男性の家事育児分担が少なすぎることも少子化の原因となっています。女性の管理職比率もまだまだ低い状況にあります。2020年に、社会のあらゆる場面でのリーダーの3割を女性にするという閣議決定もされ、男女共に自分を活かしたライフデザイン・キャリアデザインのできる男女共同参画社会に向かっています。

今、私の周囲には働く母親が増えて着ました。人生の壁はチャレンジの持続で乗り越える事ができます。私は現在、編集者・クリエイティブディレクター・大学講師・働く女性を応援するネットワークの代表・ボーカリストなど多様な仕事で人生を充実させています。 皆さんは、自分の意図を実現する「デザイン」の分野を追求している方たちですから、皆さん自身がすばらしい「人生」をライフデザインしていっていただきたいと願っています。「人生は自分の作品」なのです。みなさんの今後に期待しています。

 
(株)リクルートHR‐DCエグゼクティブプランナー、女性たちの情報化研究会会長
  Yoshiko Watanabe
渡邉嘉子

情報・広告の研究誌「ヒューマン・アド」編集長、共立女子短期大学講師(編集技法、キャリア講座)。武蔵野美術大学産業デザイン科卒。ナショナル宣伝研究所を経て、既婚27歳でリクルートに中途入社。制作ディレクター担当後、「週刊住宅情報」編集長に。「情報が人生に与える影響」がテーマに。その後「リクルートブック」「留学生のための就職情報」等の編集長を担当。1990年より情報・広告の研究誌「ヒューマン・アド」編集長、現在に至る。女性センターや大学でのキャリア講座講師を担当する傍ら「女性たちの情報化研究会」会長として働く女性のパワーアップを支援。2児の母でもある。2002年よりシャンソン歌手としての活動も開始。日本広告学会・ニューヨークADC・JAGDA会員。著書に「女性のための転職相談室」(日本経済新聞社)、「求人広告パワー最前線」(宣伝会議)他。明星大学講師(科学技術と現代社会)、デジタルスクールWAO講師(編集デザイン)。