国際若手デザイナーワークショップ2002
「目には見えないストーリー/INVISIBLE STORIES」
コンセプト


マーティン・ヴェネツキー
(グラフィックデザイナー/カリフォルニア芸術デザインカレッジ教授)



 陰翳の世界が軽視されているのは事実である。
あらゆる芸術分野、特に映画の世界では、観衆の心を魅了するのは、
見せ物的場面であり、アクションであり、痛快さである。
われわれは、幽玄さ、暗がり、空というものを置き去りにしている。
はるかに本質的で全体の姿があらわになるのは、
「間(ま)」、「真空」、「靜寂」の世界においてである。

(谷崎潤一郎『陰翳礼賛』より)


私たちが見ているもの
私たちは、自分の目の前に在るものを見てはいない。
 私たちは、(物事の)名前を知っている。ほら、ご覧なさい!あれは、ショッピングセンターですよ。あれは、アパートですよ。垣根ですよ。歩道ですよ。橋ですよ。病院ですよ。工場ですよ。ところが、私たちの目は情報の切れ端しか見ていないのです。私たちの目を通して見るほんの一片の情報以外は全て、既成の名前から推して自分で作り上げたものなのです。
 私たちが見るものは、私たちが今見ているものの名前なのである。そのもののイメージを固定するのは名前であり、私たちが知っているものに照らしてこのイメージをなぞるのも名前である。もし、これが、「歩道」とするならば、私たちはそこに立ち、歩を進めることができるのが当然である。足元の地面がこっそり動いていってしまうこともなく、たとえそのまま私たちが歩道に留まったとしても、私たちが、沈んでしまったり、浮き上がったりはしない。このように名前を通して、例えば、「歩道」を認識する。
 私たちには、目を開ける度に真新しい世界が展開するのを見ることはできない。インプットされたデータが私たちを酩酊させ、重力はまぶたを押さえ、私たちは、自分の揺かごの時代から離れることはない。
  「間の、下の、真下の背後に」
 「名前」というものは、けれども、私たちが見ているものの背後に在るものを私たちに知らしめることはない。それはまた、私たちがゆるぎのないものと思っていたものに隠れて密かに展開する、目を見張るような素晴らしい世界について言及しはしない。「言葉」は、このオフィスタワーとあの駅との間に広がる目には見えない素敵な世界を描くために考え出されてはいない。私たちは、目に見えるものを詮索するが、それは「言葉」を通してであり、行き着くところ、「言葉」はティッシュペーパーほどの薄さもないことを認識するだけである。皮膚、殻、くずれ易い、弾力性のある、砂糖のように溶けやすい、鋼鉄のように硬く突き通せない等。
(※1)ガイ・デボードとシチュエーショニスト運動
ダダイズム、シュールリアリズム、レトリズムなどの影響を受けた少数の前衛芸術家と知識者層のグループから始まる。1962年頃から初期のマルクスの著作からの影響もあり、資本主義社会の賃金労働者の生産消費活動は疎外されたものであり、その故に、生活は「眺め」に過ぎないとする理論に基づくアナーキー的色合いを持つ活動を展開。1972年解体
「眺め」
 では、私たちが背後にあるものを嗅ぎつけて、それに突き進むことを阻んでいるものは何であろうか? 操り人形の紐、あるいは、壁の中の電気コードから私たちを遠ざけているものは何か? 通気孔から、送風機から、衣装部屋から私たちを遠ざけているのは何であろうか?それは、勿論、「眺め」である。
 ガイ・デボードと1960年代のシチュエーショニスト運動(※1)に依れば、「この眺め」とは、刺激を与え行為させるものではなくむしろ見物者という受け身的な配役を私たちにあてがうものである。つまり、「あそこの」眺めと言えば、私たちが今見ているもの、私たちの目が焦点を合わせるべき場所を表している。
 しかし、(「あそこの」眺めという)替わりに、私たちは、心細やかで好奇心旺盛な若者に「他でもないココ」に目をやるようにお願いしてみよう。後ろを、中を、真下を、間を見回して。ほら、カーテンが床に届いていないところからちらっと見ることができますよ。巨大な機械のレバーが動いているのが見えますか?
  「暴露と発明」
 「眺め」の背後に隠れる機械の存在を暴いてみることは、役に立つしおもしろい冒険である。こういう形態の破壊行為は、私たちが消費しているものを白日の下にさらす方法としてはなかなかに貴重なものである。それは、欲望と食欲の力の再分配を促し、消費者たちに自制力を取り戻させることができるであろう。
 しかし、欲望と食欲の中には価値もあるし楽しみもある。私たちは、時には、強制的に話を聞かされる受身的な聴衆である以上に何も望まないこともある。私たちは、理性の全き申し子というわけではない。私たちは、自分の持たないものを持ちたがり、いずれ空腹になるだけとしても食欲を満たそうとする。だから、「眺め」というプラグをはずしたからといって、どこへ行こうとしているのだろうか? 私たちの人間性の中の何が残るのであろうか?
 新しくて、もっと不思議でもっと奇想天外な「眺め」を発明できるのだろうか?私たちが馴れ親しんだストーリーの背後にもっとすごいストーリーが隠れているのだろうか? もっとすごいストーリーとの出会いは、馴れ親しんだ普通のストーリーが未知のものに溢れていることを知らせてくれるだろうか?それらは、「日常的な普通っぽさ」と「計算づく」という不毛の状態に新たな息吹を吹きかけることができるだろうか?
  「私たちはデザイナーである。」
 もちろん!もちろん、私たちはデザイナーで、期待(既に想定されているもの)という立ちはだかる山をも動かすことのできる想像力や好奇心や機智に富んでいる。新しい展望を拓いたり、目に見えないものを解き明かすことができる。私たちは、ラジオタワーと地下鉄の通路との間に関連性という蜘蛛の糸を張り巡らすこともできる!私たちは、大衆を錯乱させたり熱狂させたりすることもできる!だから、私たちは、自分たち一人一人の掌中に「新鮮な驚き」というフットボールをキャッチすることができるのだ!
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